V.失われた記憶(前編)
研究所の一件から4日目。
2日目に1度目を覚ましたガウラが、再び眠りについてから2日間目を覚まさなかった。
ヴァルは定期的にガウラの部屋に様子を見に行き、夜には服を着替えさせるついでに、蒸しタオルで身体を吹き、甲斐甲斐しく介護をしていた。
その間もガウラは起きる気配がなかった。
時折、エーテル視を使って状態を確認する。
エーテル自体は安定はしているが、無理矢理与えられた大量のエーテルを身体が処理しきれていないのか、エーテル量は普段より多かった。
ヴァルは、ガウラがいつ目を覚ましても気付ける様に、夜はガウラの寝ているベッドの横にある椅子に座って寝ていた。
その日は家事を全て終え、ベッド横の椅子に座ってガウラの様子を見ている間に、うたた寝をしてしまっていた。
「……あの、すみません」
声をかけられて目を覚ます。
声の方に顔を向けると、ガウラが目を覚ましていたのだが、その姿に驚いた。
うたた寝前はいつも通りだった髪は、今は長く伸びていた。
そして、彼女の表情はどこか余所余所しい。
「ガウラ、目を覚ましたんだな」
「ガウラ?それが僕の名前ですか?」
その反応に、ヴァルの血の気が引く。
「もしかして、何も覚えていないのか?」
「え……あ……はい」
申し訳なさそうに答えるガウラ。
ヴァルは衝撃の事実に、思考が停止する。
「あ、あの…、ごめんなさい」
「い、いや、謝らなくていい。すまない。驚きのあまり、不安にさせてしまったな」
そう言って優しく微笑むと、彼女は少しホッとした顔をした。
「何か覚えてることはあるか?」
「いえ、何も。自分の名前も思い出せなくて…」
「そうか」
そう言って、ヴァルは考え込み、ガウラのエーテルを視る。
驚くことに、エーテルは普段の量に戻っていた。
(急激にエーテルを処理した影響なのか?)
考え込んでいると、ガウラが余所余所しく話しかけた。
「あの…、ここはどこなんですか?」
「ここはお前の家だ」
「僕の家…」
「あぁ、それであたいはヴァル。お前の──」
“パートナーだ”と言いかけて言葉を止めた。
この記憶喪失が一時的なものなのか、はたまた一生続くものなのか分からない。
もし後者の場合、自分がパートナーだと言うことを伝えてしまえば、思い出せないことに後ろめたさを感じさせてしまうのではないか?とヴァルは考えた。
「あたいはお前の同居人だ」
「同居人?」
「あぁ。以前、お前に世話になってな。恩返しをしてるところだ」
「そうなんですね」
そう答えて、ガウラは考え込む。
「ごめんなさい。全然思い出せなくて…」
「無理に思い出さなくていい。思い出す時は突然思い出すものだ。今はゆっくり状況を理解していけばいい」
「ありがとうございます。優しいんですね、ヴァルさんは」
他人行儀に微笑むガウラに、胸がズキンと痛む。
「ヴァルでいい。ところで、どこか調子が悪いとかはないか?痛い所とか」
「はい、大丈夫です」
そう言った瞬間、ガウラの腹の虫が鳴った。
顔を赤くし、目を泳がせる彼女に小さく笑う。
「ふふっ、本当みたいだな」
「は、恥ずかしい…」
「粥を作ってくる。出来るまで辛抱してくれ」
「はい、ありがとうございます」
ガウラの部屋を出た瞬間、ヴァルの表情は悲しみを浮かべ、拳を握っていた。
***************
粥を食べさせた後、ヴァルは医療関係者を自宅に呼び、ガウラの診察をしてもらった。
これと言った異常は無かったが、記憶に関しては状況的に過度なエーテルの摂取が原因かもしれないと言うことだった。
そして、医療関係者でも、記憶喪失が一時的なものなのか判断は出来なかった。
この状況を、ヘリオにも連絡して情報共有を行った。
そして翌日、アリスと共にヘリオが家を尋ねてきた。
記憶のないガウラに2人を紹介し、テーブルを囲んで茶をたしなむ。
「義姉さん、体調は大丈夫なんですか?」
「え、はい。大丈夫です」
アリスの問いに、敬語で返すガウラ。
ガウラの言葉遣いに慣れないのか、アリスは困った様な笑顔を貼り付けている。
「ヘリオ、お前の方に何か影響はないか?」
「特には」
ヴァルの質問に、ヘリオはいつもの無表情で答える。
「それで、これからどうするんだ?」
「どうするもなにも、少しずつ生活に慣れていって貰うしか無いだろ」
「…………」
“そういう事じゃないんだが”と言うような表情をするヘリオに、ヴァルは“黙っていろ”と言う視線を送る。
自分を同居人だと伝えた事を2人に話た事もあり、アリスとヘリオは言葉少なになる。
「えっと…、2人は僕の弟になるん…ですよね?」
「はい。ヘリオが義姉さんの双子の弟で、俺はそのパートナーなんで義理の弟になります」
「……ごめんなさい。やっぱり全然思い出せない」
しょんぼりするガウラに、アリスが慌てる。
「そんな!気にしないでくださいっ!義姉さんのせいじゃないんですから!」
「でも…」
「ほら!思い出せなくても、これから新しく関係を築いて行けばいい話ですし!」
「そっか…そういう考え方もあるんですね…ありがとうございます。なんか、ちょっと前向きになれそうです」
笑顔になるガウラに、ホッとするアリス。
それを見たヘリオは、ガウラをアリスに任せても大丈夫だと判断した。
「ヴァル、ちょっといいか?」
「……あぁ」
「アリス、少し席を外すから、姉さんを頼む」
「え?うん、わかった」
ヘリオはヴァルを連れて、外に出る。
家から少し離れたところで、ヴァルと向かい合った。
「何故、同居人だと伝えたんだ?」
当然の疑問だろう。
隠すことでも無い関係なのに、何故ヴァルが嘘をついたのか気になった。
「……もし、記憶が戻らなかったら、パートナーであることを思い出せない事に罪悪感を感じるだろ。そしたら、無理にでも思い出そうとして苦しむのはガウラだ。そんな思いはさせたくない。それに……」
「それに?」
「記憶が戻らず、ガウラが別の恋を見つけてしまったら…。あたいと言う存在は足枷にしかならない」
ヴァルは無表情で言葉を続ける。
「今までが奇跡みたいなものだったんだ。本来なら、あたいはガウラを遠くから見護る事しか出来なかったんだから……」
「もしそうなった場合、あんたはそれで良いのか?」
「………仕方ないだろ。あの子の中に、あたいは居ないんだから」
「…………」
「それに、1度は忘れられているしな。さっきアリスが言ったように、新しく関係を築いて、その先でガウラがあたいに好意を持ってくれることがあれば、それはそれで丸く収まる話だ」
「………そうか」
それ以上、ヘリオは何も言えなかった。
彼女の幼い頃の記憶は自分が持っている。
1度だけ、ヴァルに助けられた記憶。
その記憶はガウラが持っていないと意味をなさない。
ヴァルにとっては“忘れられた”と同意義なのだ。
「聞きたいことはそれだけか?」
「あぁ。それだけだ」
「そうか」
そう言って、2人は何も言わず、家に戻って行った。
***************
ヴァルは数日かけて、記憶を失う前のガウラが何をしている人物だったかを教えた。
話を聞いて驚くガウラだったが、少しずつ自身で記憶を戻したいと思うようになったのか、武器を扱う練習をヴァルに申し出た。
それをゆっくり、優しく、丁寧に教えると、身体は扱いを覚えているかの様に簡単に扱えていた。
だが、記憶を失っている者を実戦に連れていくのは危険が伴うと判断したヴァルは、戦いには連れていかなかった。
少しずつ家事も教え、一通り簡単な事は出来るようになっていった。
「家事、お疲れ様」
「ありがとうございます、ヴァル!」
労いの言葉をかけると、笑顔で礼を言うガウラ。
「ヴァルがお仕事に行ってますから、これぐらいは当然ですよ!」
「頼もしいな。茶でも飲んで一息つこう」
「はい!」
ソファに座り、紅茶を飲む。
すると、隣に座っていたガウラが小さく笑った。
「どうした?」
「あ、ごめんなさい。なんか少し不思議で」
「不思議?」
「はい。こうやってヴァルとお茶をしてると、なんだかホッとすると言うか、安心するというか、そんな感じがするんです」
少し照れくさそうに微笑むガウラ。
その言葉とガウラの表情に、笑みが零れた。
「そうか。それは嬉しいな」
「記憶が無くなる前も、こんな風にお茶してたんですか?」
「あぁ。お茶をしながら、今日の出来事や、今後の予定、色んなことを話してた」
「そうなんですね!」
それを聞いたガウラは、今日の出来事を話し始める。
ヴァルはそれを笑顔で聞く。
だが、笑顔で聞いている反面、心の中では複雑な気持ちが渦巻いていた。
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